母を連れて

お店を始めて15年目が来ようとしています。

開業時はまだ実家暮らしで、食べ歩きの趣味が合う母と頻繁にご飯を食べに行ってました。

ただ、結婚を機に家を出て以来、母を連れてご飯を食べに行くことは年に数回程度になっていました。

また、一時親子関係が悪化して、極力交わらないようにしていました。

その関係性も一時のことで、良くなるという確信はありました。

というのも、僕たち親子には病気という試練が多くあり、一丸となって乗り越えてきた過去がありました。

僕が中学校に入学する前に母が甲状腺がんが発覚し、闘病生活に。

そのときは、親戚のところへ預けられましたが、それも気を使うので自宅に帰りそれからは朝6時前に起床し、自分で弁当を作って、学校に通い、帰ってからは洗濯物や掃除、家事をしました。

何とか母が復帰した矢先、中学2年生になった春、父親が脳出血で倒れました。

その時ちょうど家を新築にしたばかりで、2ヶ月目でした。

借り入れしていたお金は8000万、金利もバブル期だったので高値、約2億円の借金です。それが、母の肩に全てが降りかかりました。

当時、本気で中学を止めて働きに出ようと思っていました。ただ、何も無い小学校卒ではダメと、そんな浅はかな考えを持った僕を母はなだめてくれました。

類い稀なる営業力を持った母は親父が倒れたあとも会社を存続させ、毎月60万円近くの借金を滞ることなく返済し、さらには親父の看病をしっかりしていました。そして、家事もしてくれました。

なので、食卓にはいつも温かいご飯が並んでいました。

また、どれだけ辛くても明るかった。

そのおかげで僕は過度な心配をしないで済みました。

悩んで塞ぎこんでいる母親を見たことはありませんでした。

その背中を見て「こんな人は他にはいない」と母は僕にとって絶対的な存在になりました。

そして、大学一年生の頃、親父が脳梗塞で倒れ、介護生活20年以上。一昨年前に親父は逝き、現在やっと母は自分の時間が持てるようになりました。

それだけの苦労を目の当たりにすると、よほど曲がった人間性で無い限り「母への思い」は強くならないはずはありません。

僕もお店をしてきて、ご飯をしっかり食べられるようになりました。

それを知ってか母親も「◯◯を食べに行きたい」とたまに甘えてくるようになりました。

その時は時間の都合があえば一緒に行くようにしています。

 最近母から「一創庵に蕎麦を食べに行きたい」とリクエストがあったので、行ってきました。

こんな程度が親孝行とは思いませんが、少し共有出来る時間が持ててきたというのは良かったのではないかと思います。

母もあと少しで72歳。膝も悪くなり、腰も曲がってきた。

これからはちょっとですが、母から与えられたものをお返ししてあげられたらと思います。

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